アメ文全国大会二日目

朝、ホテルをチェックアウトの後、今日は大丸の前からバスに乗り、大学へ。バスは思ったよりも空いていて、比較的はやく会場に着いた。(しかしバスは番号と行き先だけ覚えていると、反対回りのものに乗りかねない。今朝も反対方向行きのバスに乗るところであった。)総会に続き、小説家の藤野香織氏による特別講演。創作の際に、感受性はどうせ出てしまうので極力抑え、正しい文法で簡潔に書くといった技術に集中するのだという。いくぶんエリオットを思わせる方針だが、大学院時代の教員が文章に厳しい人で、その先生と学ぶことが文章修行になったとのこと。いま大学で「文章表現」という授業を受け持っており、また、過去には小学生、中高生を相手にした創作のワークショップもされたとのことで、そのエピソードがたいへん興味深かった。ワークショップでは、1人1文を書き連ねて物語を作るということをされたそうで、作品も披露された。『金メッキ時代』とか、シュルレアリストたちの共著のことなど思い出されるが、捌き手のいる連句に近いのかもしれない。作品は、物語として破綻した「失敗作」とされたものも含め、面白かった。(一人一人が強い自我を発揮したらしい作家志望の中高生たちにも興味を覚えた。)

午後はシンポジウム。二つあるうち「不倫」の方を拝聴。話題性もあり、多くの聞き手が会場を埋めていた。取り上げられたのはヘミングウェイとフィツジェラルドとキャザーの3人。『日はまた昇る』のジェイクの性的不能が、ヘミングウェイの不倫の欲望に対する自己検閲として解釈できるという説、「ポリアモリー」という概念のことなど、勉強になった。フィツジェラルドについての報告も面白く聞いたし、博覧強記のコメンテーターによるコメントもさすがという感じ。質疑でも多くの若手中堅の皆さんから多くの質問が出た。スキャンダラスなトピックであるにもかかわらず、明るい議論が繰り広げられたという印象を受けたが、それをも含め、よいシンポジウムだったと思う。自分は不勉強でよくわからないところもあるのだが、結婚制度を前提にした「不倫」について議論する場合と、たとえばスタインの Q.E.D. のような、結婚制度を介さない三角関係とを論じる場合とでは、議論が変わってくるのだろうか? それから、作家や芸術家の実生活およびそれとの関係で捉えられる文学作品を題材にして結婚や性を語る場合と、社会のマジョリティを対象にしてそれらを語る場合とで、議論が異なってくるということはないのだろうか? といったことを考えた。ピューリタニズムの伝統の強いアメリカということは文学史の本などでもよく目にすることだが、20世紀のアメリカ文学を読んでいる学部学生などにはそれが伝わりにくいのではないかといったことを感じるときがある。ジェイクの不能を社会的抑圧と結びつける解釈はなるほどと思ったし、キャザー作品に懲罰的筋があることも確認されたが、ピューリタン的抑圧および不倫に対する禁忌がどのぐらい強いのか、そのあたりの議論をもう少し聞きたいと思った。(それは、今回のシンポジウムで取り上げられなかった作家や詩人たちの場合も同様で、同時期にアメリカを出た詩人たち、たとえば H.D. らの性と婚姻関係について考えるとき、社会からの抑圧をどのように扱うべきなのか、といったことを考える。)いずれにしても、よく準備された、時間配分にも無理のないシンポであった。ジェンダーセクシュアリティに関するパネルは人気があることもあらためて確認できた。また、大会そのものも充実したものだった。皆さん、お疲れ様でした。また、準備にあたられた先生方、お世話になり、ありがとうございました。

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終了後、バス(混んでいた)で京都駅へ。土産を買ってから、名古屋へ戻り、タワーで食事した後、帰宅。